† Tea Break †
† BACK †

"Daughter's Library"

 暑い。
 ロンドン本部の長い廊下を歩きながらセラスは思った。窓の外を見上げると月が青白い燐光を放っているのだが、涼感の足しにはならない。
 ニュースによれば、今年の英国は何年か振りでの記録的猛暑に見舞われているのだそうだ。日中の気温が40度近くに達しているのだとか。
 問題は昼の暑さだけではない。
 今彼女がこうして廊下を歩いている時点でとっくに深夜零時をまわっているのだが、開け放たれた窓からはそよ風すら吹き込んでこない。しかも昼間地面や建物に溜め込まれた熱が、今になって熱気として発散されているのだ。
 こんな熱帯夜がもう何日も続いている。なのにこんな日に限って施設中の空調が故障するなんて、災難としか言いようがない。これでは寝付けたものではなかろう。
 セラスが今向かっている部屋で待ちうけている人物も、きっとそうに違いない。その人物とは彼女の上司であるヘルシング機関局長インテグラ。そして行き先はなんと彼女の寝室である。
 あれは今日のお昼頃、局長室でインテグラと二人きりになったほんの少し間のことだ。インテグラはセラスの肩にそっと手を乗せると、耳元でこう囁いたのだった。
『今夜……一人で私の寝室に来てくれないか……?』
 あのときのインテグラの目。いつもと変わらぬ涼しげな瞳の奥に一瞬かいま見えた、奇妙な熱っぽさを含んだ妖しい輝き。あれはいったい何だったんだろう……きっとこの暑さのせいで寝不足気味なんだろう。そう思いたい。
 しかし、しかしである。いったい何の用があって、インテグラはこんな真夜中に自分を呼び出そうというのか……
 ――「夜伽」。
 こんな時に限って、普段使わないような妙な単語が脳裏をよぎる。
 セラスは立ち止まって、イケナイ妄想を振り払うかのように力いっぱいに頭を振った。実のところ、インテグラに声をかけられてからずっと考えてたことなのだが。
 この暑さでどうかしてるのは自分のほうだ。セラスはそう自分に言い聞かせると、再び歩き出した。気付かぬうちに独り言などをもらしながら。
「いくらあんなだからって……いくらあんなオットコマエで、女の子にもてるからって、局長にそんな趣味あるわけ……そうよ、きっと暑くて眠れないから一緒にトランプでもしようって……」
 と思った傍から正反対の、それも良からぬ考えがどんどん浮かんでくる。
「で、でも局長ってばあんなにオットコマエなんだし、女の子にだってもてるし、それになんたって英国貴族なんだもん。MI6のなんとかっていう少佐だってそうだって言うし、きっとイギリスの上流階級とかエラい人とかってみんなそうなんだわ……ど、どうしよう、あたし局長に……」
 誤解が偏見が更なる誤解と偏見を生み出す。だが今のセラスにそれに気付く精神的余裕は無かった。
 インテグラの寝室はもうすぐそこにまで迫ってたのだ。もうあとは数えるほどの歩数分しかない。
 一歩、また一歩と近づいてゆくたびに、胸の鼓動が高まってゆく。
 ドアをノックをする手があきらかに震えている。
 ぎこちなくドアを叩く音に続いてすぐにインテグラの待ちわびたような声がドアの向こうから返ってきた。
「入れ」
「し、失礼しまス」
 声がうわずっている。
 灯りはついてなかったが、レースのカーテン越しに射しこむ月の光が部屋全体をうっすらと青く照らし出していた。もっとも仮に真っ暗闇であったとしても、セラスには昼間以上にはっきり見えるのだが。なにせ彼女は夜の眷属たる吸血鬼なのだから。
 インテグラの姿もすぐに確認できた。
 彼女はベッドに寝そべったまま頬づえをつき、けだるい流し目でこちらを見詰めていた。
 この際なぜ寝台の上にあってまでメガネをかけてるのかについては考えないことにする。それよりも、問題は彼女が身に着けてるもののほうだ。
 着けてないのだ。黒のランジェリー以外にはなにも。インテグラはその艶めかしい肢体を見せ付けるかのようにベッドに横たえていた。月光に照らし出された彼女の褐色の裸体は……とても美しかった。綺麗だった。そこからは昼の彼女が放つ凛然と男性的な雰囲気とは正反対の成分、匂うような女の色気が漂っていた。ガーターベルトの醸し出すそれがとくに際立っている。セラスは目のやり場に困った。
「待っていたぞ」
 インテグラのしっとりした唇から、吐息のような声が漏れた。
 ――やっぱり誘われてる!?
 セラスは思わず生唾を飲みこんだ。頭の中はパニック寸前になる。
 インテグラは汗で貼りついた豊かな金髪を物憂げにかきあげると、わずかに首をかしげた。その仕種一つ一つがいちいちどうしょうもないほどに艶めかしい。そうして彼女は、突っ立ったままどぎまぎしているセラスに、怪訝に話し掛けてきた。
「婦警?」
「はッ、はいッ!?」
「どうした?早く脱げ」
「ええッ!?」
 セラスは思わず悲鳴に近いものを上げていた。顔が真っ赤になる。暗がりでインテグラにはばれてなさそうなのがせめてもの救いか。
「あっ、あっ、あのッ、あたしそのッ」
 セラスは震える我が身をぎゅっと抱き締めたが、それでも震えは止まってくれない。
「早く。あついんだから」
 インテグラは悩ましげに身体をくねらせて、焦れたような声を上げた。
「あっ、あたしも身体がスゴク火照って……じゃなくってええとそのあの……」
「……」
 インテグラの切れ長の眼差しが静かにセラスを見据える。抗う気力すら奪い取る瞳の魔力に、セラスは降参した。
 さっきから震えっぱなしの指先をボタンにかける。ぎこちなく引き剥がすようにして全部外し終えると、着衣をその場に脱ぎ捨てる。続いてスカートも。絡み付くようなインテグラの視線が痛い。
 今やセラスの身体を隠しているのは僅かばかりの布切れだけとなった。純白シルク製。もしもの時のために取っておいた、とっておき下ろしたての下着。なんだかんだ言ってセラスもそれなりの準備はしてたのだ。でもまさか本当にもしもの時がくるなんて……
「よし、来い」
 インテグラは満足したように微笑みかけると、ベッドに横たわったまますらりと手を伸ばした。
 セラスは不可視の力に牽引されるかのように、フラフラとベッドの方へと歩み寄っていった。ほんの短い距離なのに、何度も足がすくみそうになる。インテグラに見られていると思うだけで、腰が砕けて床にへたり込んでしまいそうになる。
 ようやくベッドの脇まで辿り着いたのも束の間、セラスはいきなりインテグラに手首をつかまれ、強引に引き倒されていた。
「きゃッ!?」
 優に三人分くらいはある広いベッドの白いシーツの上にセラスの身体は投げ出された。
 心臓は爆発寸前。頭の中は完全にパニック状態になる。
「だッ、ダメッ!あたしまだ心の準備が……!」
 だがセラスの悲痛な訴えに耳を貸すこともなく、インテグラは乱暴に肉体を密着させてきた。両腕は力強くセラスの体を抱き締め、両足をセラスのそれに絡みつかせる。
 つややかな肌の感触。荒々しい息遣い。汗とインテグラの匂い。頭の中がクラクラして――
 セラスは叫んでいた。
「ああッ、あたしもうインテグラ様になら何されたって……!」
 ……が、
 インテグラの動きはそこで止まってしまった。ぎゅっとセラスにしがみついたまま数十秒。
「あ、あの……」
 うろたえるセラスの頬に、インテグラは自分の頬を摺り寄せながら囁いた。
「……やっぱりだ」
「……え?」
「ひんやりしてて、きもちいい〜」
「……へ?」
「これでやっと眠れる〜」
「……」
 一瞬なんのことかわからなかった。落ち着いて、とにかく落ち着いてその言葉の意味を探ること十数秒。
「え……え〜と……ああ……」
 そうなのだ。つまりはそういうことなのだ。
 セラスは吸血鬼、つまり生きながらにして死んでいる肉体の持ち主である。だから彼女の体温は常に低温状態に保たれている。インテグラはそこに目をつけたわけだ。
 つまりセラスをクーラーの代用品、冷凍抱き枕代わりにしようというのだ。
 やがてセラスの耳もとに、インテグラの鼻先から規則正しい息遣いが伝わり出した。放っておくと、インテグラはこのまま眠ってしまいそうだ。もちろん本人はそのつもりなんだろうが。
「あ、あの〜、きょくちょ〜」
「……ん?なんだ?」
 どっと疲れの滲み出たセラスの声に、インテグラの眠そうな声が返ってくる。
「局長はこれで涼しいんでしょうけど、あたしはすっごく暑いんですけど〜……」
「なんだお前、さっき『何されたって』って言ったじゃないか?」
「……ッッ」
「おいどうした?ちょっと体温が上がったみたいだぞ」
「あッ……あたしもうやめます!こッこんな恥ずかしいことッ……!」
 安心とも拍子抜けともつかぬ感情が収まると、今度は猛烈な羞恥心が湧きあがってきて、セラスはインテグラを振りほどいて起きあがろうとした。
「こら待て逃げるな」
「あうんッ!?」
 でもすぐまた引き倒されてしまう。手を伸ばしベッドから這いずり出ようとするセラスを、インテグラは無理やり奥へと引きずりこもうとするのだった。
「やだッ!?ちょッ、はなしてください!」
「駄目だ。今夜一晩つきあってもらうぞ」
「いやッ、いやですったら!」
「ええい聞き分けのない――」
 ガブッ
「痛ッ!?いたたたた!いやぁん、そんなとこ噛んじゃ――」
「だったらおとなしく――あっ、こらなにを――あっ」

 こうして彼女らは不本意にも一晩中ベッドの上でもみ合う結果となってしまったのであった。気付いたときには窓から朝日が差し込んでいたという。
 しかも二人して目の下にクマを作って寝室から出てきたところを、運悪く他の局員に目撃されてしまうというおまけ付きであった。その後しばらくヘルシング機関員達の間では、彼らの上司に関する妙な噂が飛び交ったそうである。


ギャフン
END

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