Dの庭園 番外編
約 束
written by 長月京子
1
昨夜は嫌な夢を見たような気がする。どんな内容だったのか思い出せないのに、後味の悪さだけが胸に刻まれていた。
きっと、眠る前にこれからのことを考えていたせいだろう。
ついに悪夢となってまで、心象が現れるようになった。そんな自分は嫌いなのに、止めることができない。朝子(あさこ)は自己嫌悪に陥ったまま、何度目かの溜息をついた。
大学で与えられた課題が机の上に広がっている。けれどレポート用紙は真っ白で、一向に進まない。寛げる自分の部屋にいても、息苦しい気がしていた。
胸の中にどんどん闇がたちこめて行く。考えずにいようとしても、いつの間にか気持ちがそちらを向いているのだ。
これ以上気持ちが暗くならないように、朝子は椅子に掛けたまま、伸び上がるように腕を振り上げた。
力を抜くと、再び溜息が出る。それほど日焼けしていない白い腕が、夏の訪れをごまかしているように思えて、朝子の気分は更に沈んだ。
あと十日もすれば、暦は八月になる。
このまま、真夏が訪れなければいい。七月のまま、ずっと時間が止まってくれれば、こんな物思いをしなくて済むだろうか。
卑怯な願いに更に嫌気がさして、朝子は泣きたい気持ちになった。
「朝子ちゃん、ちょっとだけいい?」
その時、まるで見計らったようなタイミングで声がした。コンコンと、軽く部屋の扉も叩かれる。聞きなれた声に少しだけ救われた気がして、朝子は塞いでいた気持ちを振り払った。
「まどかさん?どうぞ、入ってもいいよ」
現在、この結城邸にいるのは、兄の婚約者と朝子だけである。朝子は迷わず返事をして、扉を振り返った。
「ごめんね、朝子ちゃん。邪魔しちゃった?」
予想通り兄の婚約者であるまどかが、そっと扉を開けて顔を出した。兄と自分の兄妹二人だけでは広すぎる家に、彼女も一緒に暮らすようになってから、もうすぐ一年が経とうとしている。
この家の主であり、朝子の兄である晶(あき)は、かなり多忙な身の上であるらしく、一ヶ月の半分以上を英国で過ごすという日々が続いていた。まどかがこの家にやってきたのは、朝子を独りきりにさせないためでもある。
「どうしたの?まどかさん」
問いかけてみたが、朝子は入ってきた彼女の手元に、答えを見つけた。
「今日はね、簡単にブラウニーを作ってみたの。良かったら、これで一息ついてね」
まどかは朝子が向かっている机の傍らに、手にしていた盆を置く。小さな飾り籠の中に、焼きたてのお菓子が詰まっていた。アイスティーも淹れてくれたようだ。
「うわー、可愛い。美味しそう。お菓子のお店でも出せそうだね」
朝子が素直に声をあげると、まどかは照れたように微笑んだ。彼女の動きに合わせて、毛先だけが巻かれた長い髪がふわりと揺れる。思わず朝子も見惚れてしまう仕草で、兄は幸せ者だと心の中で呟かずにはいられない。
さっきまで感じていた、独りきりの息苦しさが拭われていく。まどかの優しげな気配は、朝子も兄に負けず劣らず大好きだった。
まどかはデスクの上に広がっている文献を、興味深く眺めていた。
「やっぱり学生は大変ね。何の課題?」
去年まで同じように大学生をやっていた彼女は、どこか懐かしげな目をしている。
「紫式部と清少納言の違いをね、比較してまとめるの」
数冊の参考文献が机の上に広がっているが、肝心の課題は一行も進んでいない。朝子は再び溜息をついて、椅子から立ち上がった。どうせこのまま部屋に篭っていても、課題は全く進まない。違うことに気をとられて、どんどん憂鬱になっていくだけなのだ。
こんな時は、独りきりにならないほうが良い。
「まどかさん。どうせなら、二人でお茶にしようよ。私も下に降りるから」
運んでくれたお茶とお菓子の乗った盆を抱えて、朝子は素早く部屋を出る。まどかが慌てて後ろを付いてきた。
「朝子ちゃん、課題はいいの?」
「うん。夏休みはまだ長いもん」
階段を下りて、二人でリビングに入る。対面キッチンから、ダイニングを抜けて一続きになっているリビングにも、甘い香りが漂っていた。さっきまでブラウニーを焼いていた名残が残っている。
「ごめんなさい。あたし、やっぱり邪魔しちゃったわね」
申し訳なさそうにうろたえる彼女は、年上なのに可愛い。朝子はためらうこともなく彼女にしがみついて、甘えてみる事にした。
「なんかね、今は独りでいたくない気分だったの」
まどかはそれだけで察してくれたのか、しがみついている朝子を抱きしめてくれる。ふわりと優しい香りが漂って、満たされるような心地がした。
「私、やっぱりどう考えても、まどかさんみたいになれないかも」
身勝手な兄のやり方を許して信じてきたまどかは、やはり朝子には理想だった。彼女も醜い想いに捕らわれていたと語ってくれたことがある。それでも、自分の中にあるこの暗い気持ちよりは、ずっと美しい物のような気がした。
「あたしみたいになったら、それって最悪よ。朝子ちゃんはとても素直だし、そのままでいいと思うけど」
「ううん。私、すっごく嫌な子になってる気がする」
そっとまどかから離れて、朝子はソファに沈み込むように座る。まどかも隣に掛けて、朝子の横顔を眺めた。よしよしと朝子の頭を撫でて、慰めてくれる。
「風巳(かざみ)君と、何かあったの?」
いきなり核心に触れられて、朝子は俯いた。風巳とは高校の頃から付き合っている。彼は多くの事情を抱えていたが、朝子に想いを伝えてくれた。
朝子もその想いにきちんと応えることができて、今がある。彼を取り巻く複雑な家の事情を考慮して、兄も彼がこの家に出入りすることを厭わない。
朝子が大学生になってからは、一つ屋根の下に暮らしていると言ってもいい良い状況が続いていた。毎日会うことができて、とても身近な存在なのだ。
彼が傍にいてくれる、満ち足りた日々。
だからこそ、それを失う日々を思うと苦しくてたまらない。
「喧嘩でもしちゃったとか?」
朝子はふるふると横に首を振った。喧嘩する位の勢いで、胸の内を打ち明けられたら、どんなに楽だろう。
口をついて出そうになる我儘。
言ってはいけない言葉だと判っているのに、彼の顔を見ていると堪えていることが辛くなる。
どこにも行かないで。
ずっと、傍にいてほしい。
胸に閉じ込めて、固く鍵をかけて、封印している想い。
新たな世界へ飛び立とうとしている風巳を、困らせるだけの言葉。
彼は優しいから、受け止めてくれるだろう。決して志しを曲げることはなく、ただ朝子の泣き言を聞いてくれるに違いない。
だけど、そんなふうに彼に甘えてしまうのが嫌だった。
夢に向かって旅立つ彼には、その言葉は一つの呪いになる。朝子の想いに縛られて、彼はこれからの日々、朝子の存在を振り返っては、自分が身勝手だったと後悔するのかもしれない。そんなふうに彼を縛り付ける言葉は、口にしたくなかった。
胸に秘めていたいのに、彼を失う日々を思うと叫んでしまいそうになった。
「最近、風巳とうまく向き合えないの。アメリカへ発つ日が近づくほど、笑顔が引きつりそうで、真っ直ぐ顔を見ていられない。多分、風巳も気がついているんじゃないかな」
「それは、……そうね。心なしか、元気が無かった気がするわ。彼は朝子ちゃんのことで一喜一憂する人だから、とっても判りやすいもの」
風巳は米国へ発つ日を控えて、東京の実家へ戻っていた。こちらに帰ってくるのは、二日後の予定である。それから一週間後には、異国の地へ旅立っていくのだ。
「この前、風巳に甘えて、すごく泣いちゃったのに」
泣くと、彼が困るのは判りきっていた。それなのに風巳は、堪えている朝子にわざと仕掛けたのだ。
彼は朝子の秘めている気持ちを、判ってくれていた。風巳の夢を応援する気持ちと、彼に傍にいてほしいと思う気持ち。相容れない二つの想い。
朝子は頑なに意地を張って、最後まで彼を困らせるような言葉だけは口にしなかった。
それだけは、自分を褒めてあげたい。
今も、彼を縛ってしまう言葉は、封印されたままになっている。
これからも、彼が旅立って戻ってくるまで、絶対に口にしないつもりだった。
けれど、感情が受け入れない。ついて行かないのだ。
寂しさと哀しみがこみ上げて、彼が不在になる痛みを訴え続けている。
「風巳が何か言いたげにしているの、判っているのに。私、わざと二人きりになるのを避けていたりして。もう本当にね、最悪なの」
朝子はすっかり氷の解けたアイスティーを口に含む。ブラウニーに手を伸ばして齧ると、甘味に塩味が混ざって、まずかった。朝子は声も立てずに、涙を零して泣いた。
まどかが肩を抱くようにして、引き寄せてくれる。
「最悪じゃないわよ。だって、今も風巳君を想って泣いているんだもの」
「私、風巳のことを避けていて、傷つけたかもしれない」
「それは、すぐに償えるわ。帰ってきたら、ちゃんと二人で話をするの。それでね、彼を送り出してあげられたら、とても素敵ね」
「――うん」
まどかの温もりに慰められて、朝子は寄りかかったまま、瞳を閉じた。
2
まどかがダイニングの食卓で本を開いていると、玄関のほうから物音が聞こえた。
時刻はもうすぐ日付が変わろうかと言う深夜である。晶は二日前に英国へ発っている。風巳も昨日、東京へ発ったばかりだ。晶が戻ってくる予定日は二週間先であると聞いていたし、風巳も三日は戻らない筈なのだ。二人が帰ってくると言う可能性は限りなくゼロに近い。
朝子と自分と、今この邸宅には女二人しかいない。
まどかは開いていた本を閉じて、ダイニングから一続きのリビングの扉を見つめた。廊下に続く扉は、所々がスリ硝子になっている。向こう側に動く影を見た気がして、まどかは途端に緊張した。そう言えば、今夜はまだ玄関の扉に鍵をかけた記憶がない。
ぞっとして、鼓動が早鐘のように打った。
真っ直ぐに廊下を進んでくる足音が聞こえて、まどかは身震いする。思わず不審者を撃退できるものがないかと、辺りを見回してしまう。
どきどきする胸を抱えて侵入者の動向を見守っていると、勢い良くリビングの扉が開いた。まどかは手にしていた物を、力を込めて握ったが、それは一瞬だった。
「あ、晶……」
現れたのは、見慣れた人影だった。ほっとして、体中から力が抜ける。
「ただいま、まどか」
「おかえりなさい。だけど、どうして?一昨日、出発したばかりなのに」
「理由は後で話すとして、おまえね」
帰宅した邸宅の主は、厳しい顔をしてまどかの前まで歩み寄ってきた。
「何度言っても、真夜中に鍵もかけずに。危ないだろう」
そのまま、彼はまどかが胸に抱えている物を見て、状況を察したらしかった。からかうような笑みを浮かべている。
「何?そのフライパンは。もしかして、それで俺のこと退治するつもりだったとか?」
「え、あの。違うの、これは。その、泥棒かしらと思って」
「俺が泥棒なら、おまえは今頃まちがいなく襲われているな」
「そんなことないわ。あたし、勇敢に戦うもの。フライパンって、ものすごく武器になるのよ」
「――へぇ、勇敢にねぇ……」
晶はおもむろに、両手でフライパンを握っているまどかへ手を伸ばす。右手一つで、彼女の細い両手首をとらえた。強い力で抑えられて、まどかは身動きがとれなくなる。
至近距離には、彼の端正な顔が近づいていた。
「ちょ、ちょっと。晶、はなして」
「誰かさんはフライパンで勇敢に戦うらしいから、これ位は振りほどけるだろ」
「こんなの不意打ちで卑怯よ」
「本物の泥棒なら、もっと卑怯だけと思うけど?」
彼の左手が、まどかの顎にかかる。仰け反るようにして、思いきり晶の顔を仰ぎ見る形になった。これからの展開が読めて、思わずカッと頬が熱くなる。確かめなくても、顔が紅く染まっているのは間違いない。
間近に迫った彼の顔。夜空を思わせる深い瞳の色合いに、艶めいた煌きが浮かんでいる。
「ちょっと、待って。……晶」
「泥棒は待ってくれないな」
「もうっ、晶は泥棒じゃないでしょ!」
「――だとしても、待てない」
唇が触れそうになって、抵抗するにもできず、まどかは固く目を閉じる。同時に二人の背後で物音がした。
「あれ? お兄ちゃんだったんだ。一昨日出発したばかりなのに、どうしたの?」
朝子の声がしたと思うと、目の前まで迫っていた気配がふっと退いた。まどかが目を開けると、晶は既に背を向けて妹の方を向いている。
彼の背中から様子を窺っていると、リビングへ降りてきた朝子と視線が合った。さっきまでの状況を見られていたと思うと顔が赤くなる。まどかは思わず手に持っていたフライパンに視線をおとす。
「こっちで少し引っ掛かることがあったから、すぐに引き返して来た」
晶は上着を脱ぎながら、いつも通りの調子で妹に答えている。動じることもなく、飄々としたものだ。朝子は「大変なんだね」と兄を労ってから、これまた照れもせずグサリと釘を刺す。
「それにしても、お兄ちゃん。まどかさんはお兄ちゃんと違って、きちんと恥じらいのある人なんだから、そういう所ちゃんと考えてね」
妹に指摘されて、彼が何気なくこちらを振り返った。まどかはますます顔が赤くなるのを自覚する。所在無くフライパンを見つめながら、晶にからかわれるかと覚悟したが、幸い矛先を向けられることはなかった。
「――そうだな。気をつけるよ」
彼は呆気なく妹の意見を受け入れる。まどかは上目遣いに彼を見た。思いがけず優しげな眼差しと出会ってしまい、ますます顔に熱がこみ上げる。魔的なほどに整った顔立ちで微笑まれると、それだけでうろたえてしまうのだ。
まどかが動揺をやりすごしていると、朝子は二人の横を通り過ぎて、キッチンへ入っていった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出している。
「朝子ちゃん。まだしばらく起きているなら、アイスコーヒーでも淹れるけれど」
「ううん。いいよ、まどかさん。課題が一段落したら寝るつもりだから。今からコーヒーを飲んで、頭が冴えすぎて眠れないのも困るし」
対面キッチンから、朝子の明るい声が返ってくる。そのまま水で満たされたコップを片手に、彼女は再び二人の前を横切っていく。
「とりあえず、おやすみって言っておくね」
「朝子」
自分の部屋へ戻って行こうとする妹を、晶が何気なく呼び止めた。まどかが彼の横顔を仰ぐと、何かを見抜きそうな強い視線が朝子に向けられている。もしまどかが彼にそんな眼差しを向けられたら、理由もなくうろたえてしまうかもしれない。
「何? お兄ちゃん」
朝子は平然と兄の視線を受け止めて立ち止まった。
「おまえ、ちゃんと眠っているのか」
その一言は朝子にとって的を射ていたらしい。答えるかわりに、彼女は苦い表情のまま笑ってみせた。まどかにも朝子の抱えている闇には心当たりがある。晶がなぜ突然帰国したのか分かったような気がした。
「心配しなくても、ちゃんと眠ってるよ。――寝つきが良いとは言えないけど、夏休みだからダラダラ寝ていられるもん」
兄が危惧していることに、朝子も気付いているようだった。彼女は翳りのない声で「大丈夫だよ」と笑う。
「午前中ベッドでだらだら眠っていたらね、まどかさんが起こしに来てくれるの。それが心地よくて癖になりそう。私が男だったら、絶対にお嫁さんにもらう」
「それは無理だろ。俺と張りあって勝てる男なんかいないから」
「……お兄ちゃんは、絶対そう言うと思ったよ」
朝子は無邪気に笑いながら、「おやすみなさい」と手を振ってリビングを出て行った。妹の姿が見えなくなると、晶が深く溜息をついた。そのまま傍らのソファへ腰掛けて、ぐったりと沈み込む。まどかもそっと彼の隣に座った。
「朝子の奴、大丈夫じゃないくせに」
晶の呟きが聞こえてきて、まどかは思わず顔が綻んでしまう。彼が兄として妹を思っている気持ちに触れるのは、嫌いじゃない。
朝子の告白と、これまでの成り行きから、この兄妹には血の繋がりがないことも知っている。それでも、二人を見ていると微笑ましくなることがたくさんあった。
「晶は、朝子ちゃんが心配で戻ってきたの?」
不謹慎だと思うが、笑みを堪えきれない。晶は視線だけをこちらに投げて吐息をついた。
「おまえ、そうやって笑うけどね。飛行機で仮眠していて、突然妹の夢に引きずられたら、気になるだろ、やっぱり」
彼の説明で、まどかは思っていたよりずっと深刻な問題なのだと気付いた。
晶の語っていることは、冗談でも例えでもないのだ。彼には研ぎ澄まされた第六の感覚がある。人々が生まれながらに与えられる五感とは、まるで異なった感覚。
血統に秘められ受け継がれてきた力。同じ血筋を辿っても、彼の感覚はひときわ強い。彼を生んだ一族が、作為を繰り返して成し遂げた結果だった。
これまでも、これからも、それはずっと晶を苛み続けるに違いない。
「こらこら、まどか。そんなに深刻な顔をしないように」
いつのまにか剣呑な表情(かお)をしていたらしい。晶が困ったように苦笑して、まどかの頭を軽く小突く。
「だって、晶が望んで彼女の夢に渡ったわけじゃないなら、晶を呼び込んでしまう朝子ちゃんが心配だわ」
まどかの言っていることは、晶も考えていたようだ。彼は眼差しを伏せて頷いた。
「朝子の夢はもともと繋がりやすいけど、俺もそれを気にしてる。……はじめて朝子の夢に渡ったのは両親が亡くなった頃だけど、当時と同じような暗さがあったな」
「夢の中で、朝子ちゃんと何か話したりしなかったの?」
まどかの問いに、晶は浅く笑ってから、横に首を振った。
「俺は誰の夢にも等しく介入できるわけじゃないんだ。傍観するだけなら、誰でも容易いけど、渡って介入するとなると話は別だ。たとえば、おまえの夢に渡ってみろと言われても、不可能だな」
「語り合うほど夢に入り込むのは、限られているということ?」
「そう。いきなり繋がってくる夢を眺めていることはよくあるし。――声だけが聞こえることも多い。おまえと出会う前なんか、制御する術もよく分からなかったから、本当に最悪だったな。声が共鳴して悲鳴のようだった。現れた光景は重なり合って、意味を成さないし。それを制御するコツがつかめて来たのは、お前と出会ってしばらくしてからだったかもしれない。癒しが傍にあったせいかもしれないな」
まどかは今までの成り行きを懸命に模索する。それでも、彼の持つ感覚についてはよく分からなかった。彼が自身の力について語ることはほとんどなかったからだ。
彼を苦しめてきた呪縛も、いつかは懐かしい思い出になれる日が来るのかもしれない。自身の力について語ってくれる彼の横顔を眺めながら、まどかはそんなことを考えてしまう。せめてこれまでの体験が、少しでも美しい想い出になればいいと願ってやまない。
「じゃあ、晶は自分の意志で通り道を開くことは出来ないの?」
「ほとんど出来ないな」
「ほとんどって?」
「道を開くことの出来る相手もいる。同じ血筋で、力を残している者なら渡れる。――今なら、身近なところで風巳だな。あいつが力を失うまでは、きっと渡ることが可能だ。ふつうは、成人するまでに失われるモノだから、風巳の場合でもあと一、二年だろうけど」
「晶の力は失われることがないの?どうやっても?」
「無理だろうな。俺は純血種みたいなものだから。だけど、今は自分でそれなりに制御が出来るから、昔みたいに苦痛じゃないよ。おまえが癒してくれるしね」
まどかは、彼を支えることのできる立場を与えてくれた運命に、幾度となく感謝した。
自分が彼の癒しであるということ。まどかも最近まで知らなかったのだ。教えられることのなかった自身の出生と共に、その密やかな力も明らかになった。
愛した人を救うことのできる力。間違いなく、これ以上はない幸運を与えられたようなものだ。
けれど、同時にまどかは暗い気持ちが蓄積してゆくのを止められない。
彼の癒しであるという意味。気休めではなく科学的にも証明されつつある力。
それは裏を返せば、彼を束縛する鎖になるのではないかと思えて仕方がない。自分に向けられた彼の想いすらも、その鎖によって繋がれているだけなのではないかと。
彼は心の向くまま、求めるままに人を愛しているようで、本当は檻の中で決められた成り行きを彷徨っているのかもしれない。
何の束縛もなく、真実自由であったのなら、もっと違う誰かに想いを寄せることができたのではないか。
こんな危惧を打ち明ければ、晶はきっと怒るのだろう。まどか自身、暗い思考であることは承知している。けれど、その思いが消えてなくなることはない。
まるで、溶けない氷のように。
自身の胸底に、氷点下の冷たい場所がある。それが自身の弱さの象徴であることも分かっていた。
後ろ向きな気持ちを、振り払って閉じ込める。
まどかは晶の声に耳を傾けた。自身が厭っている力のことを話してくれる彼。それは自分に心を許してくれている証なのだ。
そういうささやかな思いに、少しずつ満たされていけばいい。そうすれば、いつかきっと胸にある氷が溶ける日も訪れるに違いない。
「――それから、あとわずかで死期を迎える人の夢へ渡ることもできる。もちろん、いきなり俺からは踏み込んで行けない。はじめは向こうに引かれてたどり着く。一度たどり着くと通り道が出来る。それからは行き来が可能だから、こちらからも渡ることができるようになる」
「朝子ちゃんは?彼女はどちらにも当てはまらないけれど。やっぱり兄妹だから渡れるの?」
「朝子の場合、兄妹というのは意味がないな。おまえも知っているように、血が繋がっていないから関係がない。朝子に対しては、かなり無理をして道を開いた。俺の中に流れ込んでくる夢は、強い気持ちを現していることが多い。深い絶望や、不安。あるいは哀しみ。果てのない後悔。そういうものが、俺の夢へたどり着く。俺はぼんやりとそれを傍観していることしかできない。死期の迫った人間のものでない限り、道は開かれない」
「じゃあ、両親を失くした朝子ちゃんの哀しみが、晶にたどり着くことはあった?」
「ああ。今回のように、垣間見ることが出来た。当時は朝子を守ることに必死だったから、それを契機にして、とにかく無理矢理道を開いた。慰めてやりたかったから。それが俺に巻き込まれて亡くなった両親への償いになるかもしれないと思っていたのかもしれないな。だけど、やっぱりそういう無茶には、リスクが伴う。朝子はその後遺症なのか、激しい頭痛を訴えることがある。きっと、道が開けて通り道が出来たのだとしても、介入すると負担がかかるんだろう。だから、余程のことがない限り、朝子の夢に渡るのは避けている」
「そうだったの。朝子ちゃんと夢の中で話をするのは、良くないのね」
「そういうことだろうな」
晶はまどかを見て笑った。珍しく屈託の無い笑い方で、まどかは戸惑う。
「俺がおまえにこんな話をするのは初めてだな」
「ええ。そう、そうなの。何だか、こういう話をするのって嬉しい」
「どうして?面白くも無い話だろ」
彼の何が面白いのか分からないという顔つきを眺めていて、まどかは強く訴えておかなければならないことがあると気付く。
「あたしは晶のことなら、どんなことでも話してくれたら嬉しいの」
言ってしまってから、言葉の選び方を間違えたことに気付く。これでは、晶のことは全て知っておきたい、教えてほしいと言ったようなものだ。まるで子供のような独占欲。
まどかは恥ずかしくなって、深い意味はないことを伝えようとした。
「だから、晶の話は、あたしにとって面白いということで……」
おろおろと言葉を探していると、何の前触れもなく、彼はまどかを引き寄せた。腕の中に捕まってうろたえていると、まどかを抱きしめたまま、どうやら彼は肩を震わせて笑っているらしい。
「あたし、何かおかしなこと言ったかしら」
「――いや。おまえの言いたいことは、良く分かったよ」
くすくすと低い笑い声が聞こえる。やがて止むと、体に回されていた腕が緩んだ。それでも支えるように触れたまま、彼がまどかを見た。すぐ近くに彼の夜色の瞳が迫っている。
吸い込まれそうな宇宙(そら)の色。滲んだ色香に、眩暈がしそうだった。
まどかは焦って顔を伏せると、彼の胸を掌で押し返した。
「朝子ちゃんは、どうしたら元気になるかしら」
恥ずかしくて、俯いたまま話題を戻す。晶の吐息が聞こえたが、彼は強引な振る舞いをすることはなく、そっとまどかをはなす。
「朝子に聞かなくても、あいつが悪夢を見る原因は明らかだからな。風巳のことしかないだろ」
言い当てて、今度は深く溜息をついた。まどかもようやく顔をあげて「そうね」と頷く。
「今日もね、朝子ちゃん泣いていたの。風巳君とうまく向き合えなくて、どうしたらいいのか判らないみたい」
「溜め込まずに、我儘を言って思い切り泣いてやればいいのに。思い切り困らせてから送り出してやればいい」
「彼の気持ちを考えちゃうんじゃないかしら。きっと困らせたくないのよ」
「そんなことで困るような奴か?……何をやってるんだか、風巳は。――さて、どうしたものかな」
晶の口ぶりに、まどかは驚いて彼を見る。
「まさか、二人に何か仕掛けるつもりなの?」
「まぁね。せっかくはるばる戻ってきたわけだし」
「あの、あんまり強引なことはしない方が良くないかしら」
「――風巳がぐずぐずしているから、少し力を貸してやるだけ」
端正な顔に、悪戯めいた笑みが宿る。まどかは一抹の不安を覚えながら、彼のどこか楽しげな横顔を眺めていた。
3
小さな窓から雲を眺めながら、風巳は深い溜息をついた。
「何か悩み事ですか」
隣の座席にいる斎藤克行(さいとう かつゆき)が、風巳の漏らした溜息に敏感に反応する。
風巳は東京に本邸を構える実家から、関西へと戻る途中だった。同じ方面に用件のあった斎藤が同行してくれている。
既に二人を乗せた飛行機は成田から関西空港を目指して飛び立っている。
「風巳様の留学は、本家も認めたのでしょう? どうして憂鬱な顔をなさっているのです」
斎藤が穏やかに問いかける。
風巳は窓の景色から、機内へ視線を戻した。シートに預けていた上体を起こして、隣の斎藤へ向き直る。
「家の事は何も気にしてないよ。ずっと戻ってなかったし、報告と挨拶を兼ねて両親の顔を見ておこうと思っただけ」
「和彦(かずひこ)社長は喜んでおられるようですね」
「……うん」
「本当に、元気がありませんね」
斎藤の気遣いに甘えて、風巳は思い切って口を開く。
「あのさ。たとえばの話だけど。――数年は傍にいられない人間がいるとして。大切な人に戻ってくるまで待っててって言うのは、禁句かな。それって、言ってもいい台詞だと思う?」
斎藤は控えめに、けれど堪えることはなくクスクスと笑った。風巳も、全然例え話になっていないと気付いて、少しばかり恥ずかしくなった。
斎藤とは幼い頃からの付き合いだ。きっと彼には自分の考えなど手に取るように分かるに違いない。十歳以上年上なのに、斎藤の穏やかな物腰は親しみやすく、風巳は今でも兄のように慕っている。
二人が出会った頃、斎藤はまだ学生だった。風巳の実家である吹藤(ふとう)家の居候という存在だった。既に両親を亡くしていた斎藤は、風巳の父親が引き取ったようなものだ。きっと父は斎藤の中にあった才覚に早くから気付いていたに違いない。
今では、斎藤はその才能を惜しみなく活かしている。
七名家の一つであり、世界に名を馳せる四大富豪に数えられる吹藤グループで、彼は代表を務めている父の片腕として各地を奔走していた。
斎藤にとって、風巳は多大な恩を受けた家の息子であるらしい。そのせいか、彼は風巳がどれほど慕っても、常に一歩控えた態度を崩さない。
昔はともかく今となっては、風巳はまだ社会を知らない学生に過ぎず、吹藤とは関係のない自身の夢に向かっている途中だ。引き換え、斎藤はゆくゆくグループの重要な柱となる人間である。確実に、彼は父の期待に応えて、高みへと昇ってゆくだろう。
社会的な地位や立場で推し量るのならば、明らかに斎藤の方が優位に立っている。風巳はいつまでも斎藤に御曹司扱いされるのが釈然としないのだが、彼に対等な関係を提案してみても効果はなかった。
もしかすると斎藤にとっては、昔からの関係が存外に心地よいだけなのかもしれない。
「風巳様。残念ながら、私にはそのような経験がありません。適切なアドバイスを思いつきません」
「だから、想像でいいんだってば」
斎藤は笑みを浮かべたまま、矛先を逸らす。
「そういうことは、晶様にお聞きすれば間違いないのでは?」
「そんなの晶に聞けるわけない。関心なさそうなフリをしながら、実はものすごく朝子のこと考えてるんだよ。ほとんど父親の域に達してるんだから」
斎藤はおかしそうに声をたてて笑った。
「やはり、先ほどの例え話は、風巳様と朝子さんとのお話だったんですね」
「――あ……、うん」
カッと頬を染めて、風巳は自分の組み合わせた両手に視線を落とす。改めて言われるとものすごく照れくさかった。斎藤はからかうこともなく、優しげな目で風巳を見ている。
「たしかに、晶様には相談できませんね」
「うん。アドバイスのかわりに、目いっぱい皮肉が返ってくるよ、絶対に」
「それを聞いてみたいような気もしますが」
「冗談、嫌すぎるよ」
晶が妹を大切に守っているのは、一緒に過ごしているとよく分かった。それは吹藤という一族の犠牲になった朝子の両親への贖罪もあるのだろう。晶を苛んできた一族の因果、確執。過去に刻まれた様々な成り行きは、乗り越えた今でも、決して消えることのない傷跡として残っているに違いない。
彼らの過去は過酷で、晶は数え切れない後悔を背負っているのだ。
けれど、そんな経緯を抜きにしても、どちらにしても、晶が朝子を妹として可愛がってきたのは間違いがない。理屈も理由も抜きで、兄と妹の強い絆があるのだ。
朝子を傷つけるようなことがあれば、どんな制裁を加えられるのか、想像するだけで風巳は寒くなる。
「朝子を不幸になんかしようものなら、絶対に呪い殺されるよ」
「たしかに、それは間違いないでしょうね」
あっさりと斎藤にまで肯定されて、風巳は思わず身震いした。晶の容姿は美しい悪魔を連想させる。手に巨大な鎌を持った冥界の使途でも違和感がない。酷薄な笑みは、背筋が凍るほど美しいだろう。
そんな微笑を間近に見る勇気は持ち合わせていない。恐ろしい。恐ろしすぎる。
悶々と怖い想像をしていると、斎藤の声が妄想を遮ってくれた。
「ですが、晶様は風巳様の味方でもあると思いますよ」
意外な意見に、風巳は「ええー?」と疑わしげな声をあげた。
「一体、どこが?」
「どこがと言うか、見ていてそう感じるのです」
「朝子より俺の味方ってことは、絶対にないって」
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
力強く主張したが、斎藤は困ったように笑って、納得していないようだった。
風巳には、朝子をさしおいて、晶が自分の味方につくような場面を思いつかない。あるとすれば、朝子が余程悪い行いをした時くらいだろうか。けれど、朝子がそれほどの悪行を起こす可能性は、晶が風巳の味方につくよりも、まだ低いだろう。
朝子との優劣を抜きで考えるならば、彼が自分の味方をしてくれることはある。出会った頃からは考えられないが、今は素直にそう感じることができた。
吹藤を名乗る自分に対して、晶の嫌悪感は強烈だったのだ。彼の凍りつきそうな美貌を初めて見てから、まだ三年も経っていない。
拒絶と圧倒的な嫌悪。風巳には、恐ろしいほどだった。思い返せば、よく挫けずに今の関係までたどり着けたと自分を賞賛したくなる。
そして、素直に晶を慕っている今の自分が、風巳には心地よかった。
「朝子さんは風巳様の出発を前にして、いかがですか。心の準備は出来ているのでしょうか」
「うーん。そればっかりは俺にもわからない。わからないから、悩みどころでもあるんだけど」
「悩んでおられるのですか」
斎藤は相変わらず穏やかな眼差しで話を聞いてくれる。このさい、恥はかき捨てることにして、素直に胸の内を語ってみようと思えた。
「俺、朝子に伝えたいことがたくさんあるんだよね。だけど、それはもしかしたら彼女には辛いことかもしれないから。いろいろ考えてしまうんだ」
「覚悟が決まらないということですか?」
「ううん。覚悟は決めたよ。俺は朝子がものすごく泣いても、後悔しないでいようって思ってる。だけど、俺ばっかりその気でも、朝子が向き合ってくれないと難しいよね」
深く溜息をついて、風巳はシートにどっさりともたれた。
「朝子はきっとすごく苦しんでる気がする。それなのに、俺は更に追い討ちをかけようとしているわけだから、彼女が避けたくなるのも仕方ないかな。だけど、絶対に伝えておかないと、後悔すると思うんだ」
「風巳様が?」
「うん。それに、きっと朝子も。……本当は、傍を離れる人間が口にしてはいけない言葉だと思う。これは、相手を縛る言葉だから」
「だけど、お互いを信じていたいのですね」
風巳は頷いた。それから何かをふっきるように笑って見せる。斎藤が心なしか、目を細めた。
「だって、朝子に信じてほしいもん」
「風巳様のことを?」
「ううん、違う。自分の気持ちを信じていてほしいって思う。俺も教えてもらったんだ。これからのことを不安に思う前に、自分のことを信じているのかって。それって、すごく大切なことだと思う。だから、朝子にも教えてあげたい」
斎藤は頷いてから、柔らかい調子で話題を変えた。
「晶様はとても優しいですが、優しいだけの方ではありません」
意図がつかめずに、風巳は再び彼を見た。
「おそらく、朝子さんに対しても同じだと思いますよ」
「どういうこと?」
「彼が今までただ朝子さんに甘く接して来たとは思えません」
「それは、そうだろうけど」
時と場合によっては、叱ったりすることもあっただろう。妹への想いを示す方法が、ただ優しいだけでは成り立たないというのは分かる。
「だから、結果的には朝子さんの為に、必要に応じて風巳様の味方をしてくれますよ」
「それって、何の話をしているわけ?」
「彼はどちらに手を貸してくれるのかという話です」
「斎藤、もしかして何か知っているの?」
彼は笑っただけで、何も教えてくれない。風巳が東京へ発つ前に、晶は英国へ発っていたのだ。そんな遠いところから、何かを仕掛けてくるはずもない。
斎藤の思わせぶりな台詞は、色々と気に病んでいる自分の都合の良い解釈だろう。気のせいだと片付けて、風巳は再び窓の向こうに広がる光景を見た。
雲の合間に美しい大地が覗いている。まるで精巧に作られた模型のように見えた。
4
関西空港のターミナルビルには、あちこちに学生の団体らしき旅行者の姿があった。夏季休暇を思い切り楽しもうと言う様子で、大きな荷物を持っている。
二階フロアの片隅で、晶は大きな硝子で遮断されている外の光景を眺めていた。とっくに梅雨も過ぎて、夏本番の陽射しはまばゆい。陽光が白い機体に乱反射している。
彼は滑走路の様子から視線を外して、フロアを振り返った。濃淡のある遮光レンズに彩られたサングラスを外して、隣に座っている妹を見る。
朝子の泣き腫らした目元はまだ赤い。涙は辛うじて止まっている。妹にかける言葉もなく、晶はそっと吐息をつく。同じように朝子について来たまどかが、一言、二言声をかけていた。朝子は濡れたハンカチを両手で握り締めて、ただ頷いている。
まどかは何気なく朝子の隣から立ち上がって、晶の方へやって来た。困ったような顔をして、朝子には聞こえない小声で囁く。
「あたし、ものすごく心が痛むわ」
「……すぐに終わるよ」
簡単に答えていると、到着フロアの方で人の流れが出来はじめた。
「そろそろじゃないか」
晶が呟くと、座ったまま俯いていた朝子も弾かれたように顔をあげた。フロアの向こうに、さっきまではなかったざわめきが生まれている。到着した人達が少しずつ現れるのを見て、朝子は一目散にそちらへ駆けつけた。晶は妹を追いかけることはせず、同じ場所に立ったまま、成り行きを見守ることにした。まどかも隣で、じっと朝子の行方を見つめている。
待ち人が現れるまでは一分もからなかった。柔らかそうな褐色の髪が目印になる。どちらかと言えば細身の体格で、背筋の伸びた人影。出会った頃の幼さは、改めて見ると明らかに失われつつある。
遠目から眺めている晶にも、そんな風巳の姿は確認できた。朝子が見間違えるはずがない。
現れた風巳は朝子を見つけた途端、すばやく駆け寄った。慌てふためいているのが、晶にもわかる。朝子は泣いているのだろう。両手で顔を押さえたまま立ち尽くしていた。
小柄な朝子の顔を覗き込むようにして、風巳が身を屈めた。
数日ぶりに再会した二人の会話は、晶達の処まで届いてこない。隣のまどかを見ると、ハラハラしているのか、胸の前で手を組み合わせて固唾を呑んでいる。
晶は思わず浅く笑った。
「そんなに心配なのか」
声をかけると、まどかは朝子達を眺めたまま頷く。
「だって、余計にこじれたらどうしようかしらって」
「大丈夫だろ」
晶が答えると、近くで聞きなれた声がした。
「私もそう思います」
いつの間にか、目の前に斎藤が立っていた。スーツを身に纏い、凛とした姿で穏やかに微笑んでいる。どうやら風巳達に気をとられて気がついていなかったようだ。晶は予想外の人影に、目を丸くした。斎藤とは昨夜、連絡をとって話をしていた。風巳が搭乗する飛行機に変更がないことを確認するためだ。けれど、一緒に来るとは聞いていなかった。
「お久しぶりです」
彼は二人に頭を下げて、丁寧に挨拶をする。
「斎藤、どうしてここに?」
「あなたが予定を組み替えて日本へ戻っていることが判明しましたので、決裁を必要とする書類を数点お渡ししておこうかと思いまして」
斉藤は傍らのサイドバッグから、封筒を取り出して晶に手渡した。
「それほど急ぎの件ではありません」
「これだけのために?」
彼は首を振った。
「私はこのままドイツ行きの便に搭乗しなければなりません。こちらには、ついでに立ち寄ってみました」
「急ぎでなければ、成田から発てば良かったのに」
斎藤は笑いながら、素直に自分の思惑を口にした。
「風巳様がアメリカへ発つ前に、一度ゆっくりと話してみたかったのです」
「――なるほど。これはそのついでなわけだ」
晶が手渡された書類を示すと、斎藤は頷いた。それから、少し離れた場所で朝子とやりとりしている風巳を振り返った。
「あの方も、迷わず自分の道を歩き始めるようですね」
「風巳のことか?」
「はい」
「斎藤は心配しているのか」
「いいえ。風巳様ははっきりとした気性の方ですし、成し遂げるのは間違いありません。それにしても、朝子さんも素直な方ですね。風巳様の顔を見た途端、ごめんなさいと泣きながら訴えていました」
優しい口調で語りながら、斎藤が晶を見る。目が可笑しそうに笑みを湛えていた。
「晶様の予想通りの展開と言うことですか」
「そういうことになるかな。一歩を踏み出せない妹の背中を押してやっただけ」
二人で笑っていると、ようやく風巳がこちらに気付いたようだ。朝子がこちらを指さしている。晶は風巳と視線があった。既に晶の仕掛けた誤解は解けたらしく、二人はすぐにこちらまでやって来た。
「晶。もう、何を考えているんだよ」
挨拶も忘れた様子で、風巳は開口一番文句を唱えている。朝子も隣で「お兄ちゃん、最低っ」と訴えた。二人の不平は、晶の仕掛けに対して当然の感想である。
ぶーぶーと文句を言う二人に、晶は動じることもない。
「はいはい、悪かった悪かった」
全く反省の色が窺えない調子で詫びてから、彼はさらりと一言を投げた。
「だけどね、おまえ達。これで素直に向き合えるきっかけが出来たとか思わないか?」
痛いところを突いて、晶は嘲るように微笑んで見せた。二人とも心当たりがあるらしく、返す言葉をなくす。晶は笑いながら、風巳の目の前に車のキーを差し出した。
意図がつかめず、風巳はきょとんと掌の中にある鍵を見ている。
「俺はまどかと空港内を散策してから帰るから。――お前は先に朝子と車で帰れば?」
「え?だけど、二人はどうやって帰ってくるの」
晶は呆れたように風巳を見て、深く息ついた。全ての思惑を理解しているまどかが、すぐに「心配ないわ」と答える。
「交通手段は色々あるから大丈夫よ。晶とデートしてから帰るわね」
「それなら、俺もたまには朝子と遊んで帰ろうかな。疲れてないし、その方が四人で一緒に車で帰れて、便利じゃない?」
どうやら風巳は、二人きりで静かに語り合う時間を与える、という晶の気遣いには、どうしてもたどり着かないらしい。傍らで見守っていた斎藤が、くすくすと控えめに笑いながら風巳にそっと耳打ちした。
それでようやく晶の心遣いを理解したようだ。
「えっと。じゃあ、遠慮なく。――晶、ありがとう」
彼は素直に車の鍵を受け取って笑った。晶はやれやれと吐息をついてから、風巳の肩を叩く。朝子に聞こえない小声で「明日の朝まで帰えらないから」と伝えた。
「え?」
それが示す意味はすぐに伝わったらしく、風巳の顔がぱっと赤く染まった。朝子にはこのやりとりが判る筈もなく、まどかと笑いながら何かを話している。
朝子の目元にはまだ涙の名残があったが、もう落ち込んで自身を追い詰めていくような翳りはない。晶はとりあえず、一つの目の仕掛けは成功したと安堵する。結局、妹の気持ちを握っているのは、風巳なのだ。悔しい気もするが、それは認めざるを得ない。
「じゃあ、俺達は行くから」
「ち、ちょっと、晶」
焦る風巳に、晶は皮肉をこめた笑みを向けた。
「環境は整えてやったつもりだから、今度こそ頑張れよ」
言外に失敗は許さないと脅しをかけておいて、晶は笑いながら風巳の背中を叩いて促す。妹を託すのだから、これくらいの嫌がらせは許されるという態度である。
風巳は覚悟を決めたのか、朝子に声をかけて潔く駐車場へ向かうために歩き出した。
「じゃあ、とりあえず朝子と先に帰ってるから」
「ああ」
「晶様。私も色々と見届けたことですし、そろそろ失礼いたします」
ドイツ便の時間が迫ってきたのか、斎藤も会釈してからフロアを歩いていく。風巳と朝子、それから斎藤の姿が見えなくなると、まどかが晶を見上げた。
「晶が風巳君の味方をすることもあるのね」
珍しそうに言われて、晶は浅く笑った。
「――まぁね。背中を向けていたのは朝子だったから」
晶の中には、たしかに人一倍妹を想う気持ちがある。両親への償いも込めて、失われることのない兄妹の絆。けれど、妹を想っているからと言って、誤った態度や、どこまでも後ろ向きな姿勢を許すつもりはない。
風巳が朝子と向き合おうとしているのは、見ていて明らかだった。彼が迷いながら決意をして、朝子に伝えようとする気持ちを無視することは出来ない。
「だけど、お父さんの気持ちで複雑?」
「お父さんの気持ち?」
「娘を奪われる父親のような顔をしてるもの」
言い当てられて、晶は無造作に髪をかきあげた。風巳のことは評価している。個人的には、かなり気に入っているのかもしれない。あの吹藤という一族に生まれながら、自分とは正反対の気性。真っ直ぐに前を向いて、彼の持つ気配は輝いていると思えた。
晶にはないものを持っている。その輝きが、きっと両親を亡くし、そこから派生した朝子の闇を照らしてくれるに違いない。
そんなふうに認めていても、やはり感情は一通りのものではない。認めているからと言って、心の底から笑って全てを許せるものでもないらしい。
「たしかに複雑ではあるけど」
素直に自身の中にある屈託を認めてから、晶はまどかを見た。風巳に持っていかれるのは悔しい気もするが、そんなことにこだわっていても仕方がない。
ここはあっさりと開き直ることにした。
「この複雑な気分は、おまえが慰めてくれるだろう?」
まどかは矛先を自分に向けられて、驚いているようだ。
「それは、……あたしで良かったら、晶の憂さ晴らしに付き合うけれど」
「じゃあ、付き合ってもらおうかな、朝まで」
「え?」
「風巳にも、朝まで帰らないって予告したことだし」
「そ、それって……」
うろたえるまどかを横目で見ながら、晶もゆっくりとフロアを歩き出す。
今はもう、妹が巣立つことを独りきりで寂しいと噛みしめることもない。寂しさも、喜びも、分け合うことのできる相手を得ることが出来たから。
「あの。ねぇ、晶」
まどかが駆け寄ってきて、晶の隣を歩く。蜜色の虹彩に抱かれた彼女の瞳には、優しい想いが滲んでいる。
「あたしが傍にいても駄目?」
「何が?」
「だから、その。――いつか朝子ちゃんがお嫁に行っても、あたしが傍にいたら少しは寂しくないかなって」
「――それはまた、気の早い話だな」
「だって、……なんとなく、そう思ったから」
照れたように頬を染めて、まどかはささやかな言葉で、これ以上はない慰め方をしてくれる。晶は彼女の照れた様子に笑いながらも、素直に頷いた。
「だけど、そうだな。おまえがいてくれたら、きっとそんな日が来ても祝福できるだろうな」
まどかは「良かった」と嬉しそうに笑う。晶はからかうように、彼女の頭にぽんと軽く触れた。
「さて。とりあえず、今夜はどうやって慰めてもらおうかな」
「どうやってって、……本当に帰らないつもりなの?」
「もちろん」
二人でフロアを歩きながら、晶は硝子の向こうに転がる夏の空を見た。
眩しい光に彩られた世界。
彼女が与えてくれる、優しい想いに満たされた日々。
眺めている光景の全てが、夏の日差しに負けないほど輝いている。
誰かが旅立つ背中を見ても、もう独り残されたとは思わない。慕った人達が、いずれ違う道を行くのだとしても、今なら心からその未来を祝福できるだろう。
自分の隣には、かけがえのない彼女が寄り添ってくれるから。
たとえ誰かと別れを繰り返しても。
独りきりの闇は、もう二度と訪れない。
5
助手席から、朝子は運転席でハンドルを握っている風巳を見た。高校を卒業してから少し伸びた髪が柔らかそうで、思わず手を伸ばしてみたい衝動にかられる。
出会った頃は、女の子も顔負けの綺麗な顔をしていると思ったが、今見ている横顔は精悍でたくましい。背も伸びて、彼の中にあった幼い少年は、少しずつ失われているようだった。
「あのさ、朝子。そんなにじっと見られていると、ものすごく緊張するんだけど」
前を向いたままの風巳に声をかけられて、朝子はハッと我に返った。久しぶりに彼の顔をじっくり眺めて、思わず物思いにふけってしまった。
「ごめんね。横顔に見惚れちゃった」
照れもせず打ち明けると、風巳のほうが恥ずかしいのかみるみる顔が赤くなった。こんなふうに何の屈託もない気持ちで風巳の隣にいるのが、朝子は本当に久しぶりのような気がする。
全ては兄が仕掛けた間違えた情報のせいでもあるが、おかげで思い切り率直に風巳に謝ることができた。
高速に入る少し前の赤信号で、車が停止した。前を向いていた横顔が、ふいに朝子に向けられる。琥珀の色を湛えた眼差しと出会って、朝子は戸惑う。同時に、一気に空港での取り乱した自分を思い出して、いたたまれない位に恥ずかしくなった。
「朝子、すごく泣いていたんだね。まだ、泣き腫らした目をしてる」
「う、うん。だって、お兄ちゃんが、風巳がそのままアメリカへ発つなんて騙すから。びっくりして、本当にどうしていいか分からなかった」
風巳は「そうだね」と笑う。
「だけど、俺としては、晶が朝子を泣かせるような嘘をつくことにも、びっくりかな」
「どうして?」
「そんなの、晶の妹への思い入れって、ものすごいものがあると思うよ。俺なんかそんな兄弟いないからさ、二人のことが羨ましいもん。そんなに可愛がってる妹を泣かすなんて、そんなこともあるんだなと思って」
信号が青になり、風巳は再び前を見てハンドルを握った。車が発進すると、ゆるやかな振動があった。
「――お兄ちゃんって、人にちやほや接する人じゃないから。最終的には、相手のことを思いやっているってわかるんだけど、なんていうのかな……」
「あ、わかるわかる、それ。自分の仕掛けにはまって行く様子を、楽しんでいるように見えたりするってこと?」
「そうなの。本気で、悪戯感覚なところがあるの。まどかさんなんか、常にからかわれているように見えるでしょ」
風巳は前を向いたまま、声をたてて笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。そんな些細なことが、朝子には素直に嬉しい。
空港に向かうまで抱いていた、もう会えなくなるという切羽詰った思いがなくなると、素直に自分の気持ちと向き合えた。
どうして、風巳といられるのがあと一週間しかないなどと思いつめていたのだろう。彼とは、まだ一週間も一緒にいられる。想いを打ち明ける時間は、たくさん残されているのだ。彼には、我儘を言いたくない。泣き言もぶつけたくない。
だから、行かないでとは決して言わない。
その気持ちは変わらなかったけれど、どうしても伝えたい想いがあることに、朝子は気付いた。それすらも打ち明けずに風巳と別れてしまったら、きっと彼との離れ離れの日々に後悔が募ってしまう。
「いってらっしゃい」と送り出した両親が、朝子の元に帰ってくることは永遠になかった。誰かを見送っても、待っていれば必ずまた会えるとは限らない。その恐れは今も朝子の中に刻まれている。
「いってらっしゃい」と笑顔で送り出すだけでは駄目なのだ。「頑張ってね」と応援するだけでは、朝子の不安は癒されない。
風巳の想いを縛ってしまうと分かっていても、朝子はただ一つの約束がほしかった。そうすれば、きっと自身の中にある闇に捕まることはない。そんなふうに、自分を信じられる気がしたのだ。
「だけど、空港で朝子が泣いていたのは、今思うとかなり嬉しかったかも」
朝子はゆっくりと風巳の横顔を見る。その気配で自分が不思議に思っているのが伝わったのか、風巳は前を向いたまま嬉しそうに続けた。
「だって、俺のことを考えて、そんなに泣いちゃうんだなって思ったらさ。やっぱり嬉しい。俺がアメリカに発つ日も、思い切り泣いてくれていいからね」
「そんなの嫌だよ。最後に覚えてもらう顔が泣き顔なんて、絶対にやだ。絶対に笑顔で送り出してあげるもん」
「えー?」
「これだけは、絶っ対に譲らない」
言い切ってみたものの、朝子にも出発当日の気持ちはわからない。もしかすると、やっぱり泣いてしまうのだろうか。
「朝子って、独りで頑張ってしまうから心配」
彼の横顔に、苦笑が浮かぶ。朝子が戸惑っていると、彼は一瞬だけ横目で朝子を見た。
「家についたら、俺は一つだけものすごい我儘を朝子にぶつけてしまうと思うから。朝子も俺にぶつける我儘を考えておいてね」
「え?」
「そうじゃないと、不公平だから」
「そういうのに、平等とかあるのかな」
「もう、いいの。とにかく決めたからね」
強引に風巳が決めてしまう。朝子は笑いながら、胸に抱えている想いを改めて確かめていた。彼に告げる一言は、もう決まっている。
我儘でも、束縛の言葉でも、これだけは伝えておきたい。
家に着いたら、今度こそ恐れずに向き合ってみよう。
風巳と、そして恐れている自分自身と。
朝子は覚悟を決めた。車は高速の流れに乗って、走り続けている。やがて、見慣れた地元の地名が視界に入ってくる。高速を降りると、見慣れた街並みが車窓に広がった。
朝子は気付かれないように、そっと深呼吸をした。
結城邸に到着してから、風巳は初めてこの家を訪れた日のことを思い出していた。入ったことのない人の家は、別世界のように感じたものだ。
それが錯覚であったかのように、今はここに来ると落ち着いた。東京にある吹藤の本邸にも見慣れた懐かしさはあるが、朝子達のいる結城邸の方がずっと親近感がある。
高校時代から、親友の沙輝と出入りを繰り返していた家。
きっと自分が年老いてから故郷のように思い出すのは、この家のような気がした。
しびれる様な幸福感を与えてくれた、かけがえのない場所。
「どうしたの?風巳。部屋を見回したりして」
「うん。やっぱり、ここ好きだなーと思って」
朝子は戻ってくるなり、お茶を淹れてくれていたらしい。丸い盆にアイスティーと焼き菓子をのせて、対面キッチンからダイニングを越えて、一続きのリビングまでやって来た。
「アイスティーが入ったよ。風巳は疲れているよね。とにかくゆっくり寛いで」
ソファに挟まれた小さなテーブルに、朝子は盆に載せてきたものを並べる。それから風巳の向かい側のソファに座った。
「あ、朝子。こっちこっち。こっちに来て」
風巳が自分の隣を示すと、朝子は何のためらいもなく隣に来てくれる。少しはにかみながらも、笑ってくれた。
「うん。やっぱり風巳の隣がいいね」
朝子は時折ものすごく無防備で、風巳は反応に困ってしまう。触れ合いそうな距離を息苦しく思うのは、自分が意識しすぎだと分かっているのに、戸惑いを隠しきれない。
それだけで、鼓動が高くなった。
風巳はこみ上げて来る想いを、そのまま口にした。
「俺、朝子のことをぎゅうってしてもいいかな」
もう何かを秘めたり、我慢したりはしない。ありのままの気持ちで、ありったけの想いを刻む。朝子はうろたえる様子もなく、かすかに頷いた。
小さな肩を引き寄せて、風巳は抱えるように腕を回す。何度か抱きしめたことのある体は、やはり驚くほど華奢だった。折れそうなほど細いのに、暖かくて柔らかい。
「朝子の輪郭(かたち)を覚えていたいから、しばらくこうしていてもいいかな。このまま話をしてもいい?」
「いいよ」
「じゃあ、俺の我儘を打ち明けます」
わざとらしく宣言してから、風巳はスッと息を吸う。伝わってくる朝子の温もりが、勇気をくれたような気がした。
「何年間か、傍を離れることになるけど。俺は絶対に朝子のことを忘れたりしない。――誓うから、待っていて。帰ってくるまで、待っていてほしいんだ」
それは彼女に与える呪縛。
本当は告げてはいけないのかもしれない。伝えずに旅立ったほうが、朝子は自由に世界と向き合える。自分が不在の日々に、彼女が出会う誰か。その誰かに向かってゆく気持ちを束縛する権利など、誰にもないのだ。
風巳がこの一言を伝えなければ、朝子が縛られることはない。
何の気兼ねもなく、負い目を感じることもなく、自由な想いで人と触れ合えるのだろう。
分かっていたけれど、風巳は伝えた。
「ごめんね、これは朝子を束縛する言葉だけど。……でも、俺は自分の気持ちを信じることにしたから」
「自分の気持ち?」
「うん。だから、朝子も自分を信じてほしいんだ」
これは相手に対する呪縛ではなく、自分を信じるという儀式。愛しい人へのゆるぎない想いは、決して見失わない。胸に刻んだ、誓い。
多くを語らなくても、朝子は気付いてくれただろう。風巳に強くしがみついたまま、彼女は肩を震わせて泣いていた。声を殺して、しゃくりあげるとかすかに声が聞こえた。
「……同じだよ」
腕の中から、濡れた声が伝えてくれた。
「私も同じ。風巳に言いたかったの。帰ってきてって。待ってるから、私のところに絶対に帰ってきてって、そう言いたかった。自分の世界を歩いていく風巳を、困らせるかもしれないって思ったけど……」
「困らないよ」
「うん。だから、風巳の言ったことも束縛なんかじゃない。――これは、約束だね」
「うん」
朝子はしがみついていた腕を離して、風巳の顔を仰いだ。瞳は濡れているのに、あどけない顔には笑みが宿っている。愛しさがこみ上げて、胸が締め付けられるようだった。
「約束するよ。絶対に帰ってくる。だから、待っていて。――朝子を、独りにしたりしないから」
彼女は両親が出かける時に、約束をしなかった。ただ、見送っただけなのだろう。だから、約束がほしかったのだ。朝子にとっては、それが闇を退ける輝いた光になる。
約束が、自分を信じる強い力になる。
風巳が指を伸ばして、彼女の濡れた頬に触れた。涙を拭うように動かすと、彼女はくすぐったそうに笑った。
今度は朝子が腕を伸ばして、風巳を抱きしめてくれる。
「私も風巳の輪郭(かたち)を覚えていたい。風巳の暖かさ。風巳の匂い。忘れないように」
「――うん」
寄り添う彼女を強く抱きしめる。
もう、何も恐れることはない。何のわだかまりもなく、彼女と触れ合える。
「朝子。もう一つだけ、俺の我儘きいてくれる?」
耳元で囁くと、彼女はぱっと頬を染めたが、風巳から離れようとはしなかった。まるでそうすることが当たり前のように、二人が唇を重ねる。
遠くはなれた日々にも、寂しさが募らぬように。
時を隔てても、愛しい人の温もりを忘れることがないように。
大切な人に触れて、たしかめる。自分の気持ちが揺るがずに在ることを。
かけがえのない約束。
身体に刻まれた熱、痛み。
きっと全てが、二人を繋ぐ美しい絆になる。
| | | Copyright (c) 2004 Kyouko Nagatsuki All rights reserved. | | |
| 本編情報 |
| 作品名 |
Dの庭園
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| 作者名 |
長月京子
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| 掲載サイト |
空想庭園
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| 注意事項 |
年齢制限なし
/
性別注意事項なし
/
表現注意事項なし
/
完結
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| 紹介 |
一族の血統に受け継がれる、不可思議な力。
その力に固執する一族が強いる束縛。奪われて行く絆、明らかになってゆく真実。
失ったよりどころを求める二人が、様々な思惑に翻弄されて、想いはどこへ辿り着くのか。
やがては、在り得ない血統が生み出された理由が、時を超えて、二人の運命に収斂されてゆく。
現代SF恋愛ファンタジー。 |