「笑う人、笑えない人」

作者:わたし



私が考えるに、人間は二つに分けられる。
それは「笑う人」と「笑えない人」の二種類だ。
かくいう私は、後者の「笑えない人」。かといって、なにも全く笑わないとい
うわけではない。私だって可笑しければ人並みに笑う。この分け方をするに当
たって問題なのは、「笑いのツボ」なのだ。


ある寒い日。私は、とある大きな交差点で信号待ちをしていた。
ちょうど退社時間ということもあって、かなりの人数が、信号が変わるのを今
や遅しと待っている。
で、私はそのしっぽの方に立っていたのだが、その声は右隣からいきなり聞こ
えた。
「ブワックショーイ!」

この声は何かというと、右隣に立っている、冴えないサラリーマン風のオヤジ
が発した、デカイくしゃみだ。
手持ち無沙汰だったこともあって、ナニゲにそちらを向いた私は、とんでもな
くおぞましいモノを見てしまった。

なんと、そのオヤジの真ん前に立っているOLさんの白いコートに、タ、タ、
タンが付着してるのだ。
たった今の、オヤジのくしゃみで飛んだに違いないそのタンはベッター!と、
なんとも頑固に張り付いている。
暖かそうな白い生地に、それはかなり目立って見える。
位置は「ストライクゥ!」と言いたくなる程、キレーに背中のド真ん中。

(ゲッ!)と私が凍り付いたその時、予想もしなかった「ククク…」という忍
び笑いが周囲にまき起こった。
私と同じタイミングで、このアクシデントに気付いたらしい周囲のヤツら。こ
いつらが笑っているのだ。彼ら的には、この出来事は「笑いのツボ」にはまっ
たらしい。

…おいおい、キミ達、これって笑えることかね???
いやぁ、わたしゃー笑えんよ。だってさ、白いコートだぜ、白!しかも、フワ
フワのファーがついた、結構値が張りそうなコートだぜ?!

そして。憮然としながらも依然として固まっている私の目の前で、事態は更に
新しい局面を迎えつつあった。
タンを飛ばした当のオヤジが、期せずして起こった笑い声に自らも照れ笑いを
浮かべつつ、この場からこそこそ逃げ出そうとしているのだ。

コラ待てオヤジ!クリーニング代出せとまでは言わん。しかしな、せめてOL
さんに謝って、ティッシュだかハンカチだかで拭くくらいの事はしろよ!って
いうか、そうすべきだろ?!

…というようなことを頭に浮かべている私だが、思わぬ展開に度肝を抜かれて
いては、そんなことを言えるはずもない。ただ口を「アウアウ…」とさせるば
かり。そうして、その間に、オヤジは暮れなずむ街の雑踏に消えていった…。


後に残されたのは、呆然としたままの私と、口元にまだ笑いを残している周り
のヤツら、そして、自分の背中にタンが張り付いているとは夢にも知らぬOL
さん。
いやはや、信号が変わるまでの間がなんとも長く感じたひとときだった。


振り返ると、私が「笑う人、笑えない人」について考え始めたのは、この出来
事がキッカケだったのかもしれない。


そうそう、こんな事もあった。
私は電車に乗っていた。ほとんどの座席が埋まっていて、立っている人もちら
ほら。乗車率はそこそこというところだろうか。
天気雨が上がったばかりの夏の真っ昼間ということで、冷房の利きは悪く、車
両全体がなんとなく蒸したような空気だ。乗客はというと、外と大して変わら
ぬ車内の温度に、ちょっとうだったような顔をしている。

そんなだらけムードの中いきなり、連結部のスライドドアが勢い良く開いた。
「ガーーーーーッ!」
続けて、「ドス。ドス。ドス。」 という、重そうな足音。
その、あまりに威勢が良い音に、私を含む乗客達は皆そちらを見た。

…通路をこちらに向かってくるのはオバちゃん。しかし、ただのオバちゃんで
はない。目方がゆうに100キロはありそうな威風堂々としたオバちゃんだ。
ただでさえ暑い車内、しかもその立派な体格では体感温度が更に高いのか、額
に汗をにじませて、フーフーと息を切らせながらキョロキョロしている。
その仕草からすると、たぶん、空席を探して隣の車両からこちらに移ってきた
のだろう。

両手にスーパーの買い物袋。その上、とてつもなくムチムチした腕には、男物
の長い傘を引っかけていて、その先端を引きずりながら歩いている。
そして、そのオバちゃんは、パンチパーマのような髪型の頭を左右に振り動か
し、手に提げた買い物袋をガサガサいわせながら、なおも執拗に空席を探して
いた。

と。私が座っている辺りを見たオバちゃんの目がキラリ。と光った。
ここは8人掛けの座席。しかし、座っているのは全部で7人だ。きっちり1人
分というスペースは空いていないが、7人それぞれの間に僅かな隙間がある。
オバちゃんの目は、眼光鋭くその隙間を見ていた。

さっきまでの重そうな動きはどこへやら、彼女は小走りにこちらに近づいてき
た。そして、それが悪かったのだ。

「ドッスーーーーンンン!」
オバちゃんはコケた。ドリフのコントのように、バナナの皮が落ちていないの
が不思議なほど型をキメて。

彼女は運が悪かった。…そして我々も。
なぜなら彼女の服装は、ふくらはぎくらいの丈のフレアスカートだったのだ。
なんというか…、あけすけな言い方をすると、床に倒れこんだオバちゃんは、
「パンツ丸見え」状態になったのだ。
彼女が転んだのは車両の中間辺り。ということは、ま、角度の問題はあるにせ
よ、この車両に乗っている乗客のほとんどが、オバちゃんのパンツを見たこと
になる。

一瞬の沈黙の後、乗客達はなんとも残酷な反応をした。
「ブワーーーーーハハハハハッ!!!」
文字通りの爆笑だ。それは車両全体が沸き返るほどの大きな笑いだった。

やがて、何事もなかったように立ち上がったオバちゃんは、来たときと同じよ
うに、しかしさっきとは反対側のドアへ歩み寄ると、次の車両に向かうべく、
「ドス。ドス。ガーーッ」っと音を立てて退場していった。

まさしくそれは退場だった。オバちゃんが去っていったあとの車内はまるで、
ひとつの出し物が終わった後のような高揚感が漂っていた。乗客の中にはまだ
笑っている人もいる。

しかし、私は最初から最後まで笑えなかった。
なぜなら、自分のみっともない状況を悟ったオバちゃんは何より先に、まくれ
たスカートを戻したのだから。その手つき、素早さは、まるで初な女の子のよ
うだったのを私は見逃さなかったのだ。
去っていくオバちゃんの後ろ姿は、精一杯の虚勢を張っていた。しかし、赤く
なった両耳だけは取り繕えてはいなかった。

笑った乗客に罪はない。
確かに、それまでのオバちゃんの仕草は典型的な「オバタリアン」だった。
その風貌、そして僅かな隙間に向かって突進するという行為は、道化的な役割
を割り振られるのにふさわしい。
彼らはその道化師に対して、しごく当然な笑いを贈っただけなのだ。
しかし、彼女は…、そう、「彼女」だ。
オバちゃんは、そのあまりにもオバちゃん的な風貌・行動とは裏腹に、「女」
だったのだ。
たとえ、両脇に座っている乗客のヒザの上に座らんばかりに、僅かな隙間へお
尻をねじ込むつもりだったとしても、その実、彼女は道化ではなく「女」だっ
たのだ。


この二つの事件に遭遇して感じたことがある。
それは、どの場面でどんなふうに笑うかで、その人が持つ優しさの量や、時に
は品性までもが分かるのではないかということだ。
そう考えると、誰かに降りかかった災難を笑う事、人の失敗を笑う事は、人前
でパンツを見せるよりも恥ずかしいことのような気がしはしないか?

幸い、私は今までのところ、道化的な役割を振られたことはないし、人前での
大きな失敗もない。
しかし、いつかはそんな時が来るだろう。
その時の私は、一体、どんなリアクションをするのだろうか。
タンのオヤジのように照れ笑いを浮かべるのか、それとも、オバちゃんのよう
に無表情を作るのか。

いずれにせよ、その時とった態度が、「笑う人」達の笑いを更に大きくするこ
とにはなりませんように…!と、小心者でもある「笑えない人」の私は、今か
ら切に願うばかりなのだ。

                              

                              

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